遡上:15:男の本能アップデート
「わたしは男が大嫌い」という本が話題ですね。
塩鮭はある種類の男が嫌いです。
くそくらえな前回を筆頭に、「男が多数の女と性交渉したいのは、種の保存という本能のため当然だ」という詭弁を繰り出す輩です。もげろ。
動物としては正しいかもしれないが、人間として正しいとは思わない。
これを行動の正当化に使う人間を人間と思わない。
思考を放棄した獣が人間の姿をしているにすぎない。
というか、なぜいまさら石器時代のプログラミングを持ち出すのだ?退化してるの?
なんでもアップデートされていくのに本能は何十万年も変わらないっておかしくない?
もうそろそろ本能もアップデートしません?
塩鮭は、”量よりも質、幸福な種の保存”を提唱します。
仮に、婚姻関係も無視してのべつまくなく性交渉してほうぼうに子供を作るが養育しない男Aと、自らの子供はいないが子ども食堂などの活動を通じて他人の子育てを助ける男B、どちらが種の保存に寄与しているでしょう。
前者Aは数を増やしてはいるが、子供の幸福まで視野に入れているとは言い難い。父親の不在で社会的経済的に苦しい環境に子供がおかれる可能性は高い。それを不幸とは言い切れないが、困難であることに間違いはないと思う。そんなことおかまいなしに数を増やす、石器時代からの本能・質より量。
後者Bに、数の貢献はないが、家庭だけでは体験できない何かを子供に与えているかもしれないし、苦境にいる子供のセーフティネットになっているかもしれない。数は増えないが子供の幸福度はあがるだろう。こっちはアップデート版本能・量より質。
人間が自然界の新参者だった時代は、生存確率が低いから数を増やすことは理にかなった戦略だった。
だけどいまや人間を脅かす自然環境も外敵もさほどなく、数は増えすぎている。
それでもまだ数が必要か?むしろ増えすぎたら滅びるのでは?
種の保存が目的だとしたら、環境に適した戦略を選べることが本能なのでは?
そして、喜ばしいことに、人間はすでに新しい環境に適した戦略も実践してきている。
ブッタとかガリレオとかガンジーとかアインシュタインとか、彼らが創り出したものは多くの人間に影響を与え生活を変えた。
思想だったり技術だったり、遺伝子以外のさまざまなかたちで人間が創ったものがあり、それによって人間は繁栄してきたよね?
血縁関係なく多くの人に幸福の種をまくこと、成長を助けることもまた、偉人たちの創造と同じように種の繁栄に貢献しているとわたしは思う。セックスではなく別の方法で種をまく人はたくさんいる。そしてそれは日常で普通にできること。例えば、たとえばダンスで、たとえば料理で、たとえば文章で。
わたしは彼らに人間という種の美しさを見る。
おもしろいことに、そういう男性の多くは夫婦関係がいい。すがすがしいくらいにほかの女に興味がない。
つまり、本能の本質は、創造しそれを他者とわかちあうことだ。
創造物が自分の遺伝子が入った子供なのか、それ以外のものなのかという違いだけだ。
創り出すものがあれば、のべつまくなく性交渉しなくたって、本能は充足される。
冒頭に戻って、わたしが嫌いなのは、卑しい詭弁を使う獣男である。獣は精子以外にまける種がない人間としての貧しさを、旧時代の本能で言い訳しているにすぎない。
つまり、かなり、イケてない。おえっ。
男の部分と人間の部分が統合された男性は尊敬するしかっこいいし美しい。
そう、人間としての男性は美しい。
その区別をできたことでとても救われた気分だ。
だいすきです。人間の男。
だいきらいです。獣の男。
グッバイ獣男。私の世界線に君らは不要だ。