塩鮭のライティング遡上

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遡上:8︙「話」がうまいか、「会話」がうまいか

「話」がうまい人、と「会話」がうまい人は似て非なるものだ。

 
わたしは「話」がうまい人‐自分の話を面白く言葉で伝えることに長けた人を指して「会話」がうまい人だと勘違いしていた。
 
話がうまいとは、たとえば観た映画のストーリーと見どころを伝えられるとか、その場にいなかった人に、ある物事の魅力を伝えられること。
 
話がうまい人は、諸刃の剣で、内容が面白いもの・前向きなもの・共有可能なものであれば、人に好かれる。
逆に、内容が個人的すぎたりネガティブだったり共有不可能な場合、人から嫌われる。
面白ければ長くても聴きたいと人は思うし、つまらなければ短くても聴きたくないと思って自然だ。
 
もう一方の、「会話」がうまい人というのは、言葉と思考のキャッチボールができる人。ダイアローグ、対話ができる人。
相手の話を受け取ったり返したり広げたり、ほかの場所へ持っていける人だ。
相手の入る隙間があり、その人と話をすることで、一人では知らなかったことや考えなかったことが生まれ、その人と会話すること自体が楽しいと思われる人。
 
話はモノローグ、独白、一人芝居なのに対して、会話はダイアローグ、対話で群像劇。
ノローグでは、そこにいる人は演者と観客に分かれ、ダイアローグでは、話者はどちらも参加者。
 
ずいぶん違う。
 
わたしは長い間、人が聴きたくなるような面白い独白ができない自分を嫌悪し、面白くない独白を続ける他人も嫌悪していた。
 
面白くないモノローグ話者との格闘の末、面白い話はできないけど、面白い対話はできるという根拠のない自信と、すくなくとも対話を楽しくする意図を持っていて努力はできるという自己効力感を感じている。
だれか一人がずっとしゃべっている場よりも、 そこにいるみんなの話をすこしずつ聞けるほうが好きだからだ。
 
 
私以外の何者かになろうとしなくていいというのは想像以上に心地がよい。
 
ネタが尽きてきてとりとめがないがまた明日。