精子以外の種をまけるのが成熟した人間の本能では?という話は、わたしと大切な人の体験に基づいている。
彼は、小柄でしわしわで、愛嬌があって、智慧があって、そこにいるだけで場が変わる、不思議な人だった。
彼を追いかけて、たくさんの新しいことをした。
彼と一緒にいることが本当に幸せだった。
ヨーダのような人。
ヨーダはもう亡くなっている。
だけど、まったく、寂しいと思わない。
わたしが弱ったとき、強く何かを願うたびに、ヨーダはそこにいるからだ。
それは、友人の口から出る言葉を借りていたり、人との出合いだったり、ふと選んだ本の一文だったり、する。
一言、一文、思いがけない出合いで、彼はわたしがわかるように合図をくれる。それに気づくと、そうそう、それだよーと彼がにこにこしている。ゆるめばいいよーと言っているのがわかる。
わたしが自分の意志だと思って選ぶこと、することの背景には彼がいる。
教えてもらったこと、一緒に過ごした時間で培ったもの、彼の痕跡がわたしという人間として機能している。
だから、わたしはヨーダの肉体的遺伝子はもっていないけど、確実にヨーダの種から育った子供だ。
その感覚は、わたしという個体としての存在するよりも、自分の存在を強く確かに地に足がついたものにしている。
個体を越えた有機的なつながり、ひろがりの中にわたしも彼もいる。そういう安心に根差した存在の仕方をヨーダはわたしにくれた。
そういう創造の仕方もある。
そういう存在の残し方もある。
種をまき人を育てるとはこういうことだ。