塩鮭のライティング遡上

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43;女の本能について

男の本能が創造なら、 女の本能は、育てることかもしれない。


育てる、にも2種類の方法があるように見える。それは、盆栽と剪定の違いに似ている。

 

こうあってほしいスタイルにはめ込み、型から逸れた場合は強制して育つ方向を変えるのが盆栽流。

 必要な調整は加えるが、そのもののありようを尊重して、育つに任せるのが剪定流。

 

育てる対象が草木の場合は、方法に優劣はなく、趣味嗜好の問題だ。

しかし対象が人間だったらどうだろう。
子供か大人かを問わず、人間を育てる場合は、盆栽流はどうも害になるように思えてならない。

 

なぜなら、対象自らが望んでいない正解や規範を示し、逸脱した場合に懲罰的対応が与えるのが盆栽流だからだ。

育て手が設定した型に当てはまらないと常に、あなたは間違っている、というネガティブメッセージが発せられる。

 

反対に、自他に危害や悪影響を与える場合においてのみ修正を加える剪定流は、 基本的に正解や規範を押し付けないので、育ったね、すごいね、というポジティブメッセージの循環になる。

先に書いたように自他に害をなす言動に修正を加えるが、そういった行為の数などたかがしれているし、それを修正することは、翻って本人の利益になるのでこの剪定作業は外部規範の押し付けにはならないはずだ。

 

自らが望んでいない正解や規範を示され、逸脱した場合に自分が悪いと責められることに、居心地のよさを感じる人間は、おそらく、いない。

褒められて育つのと、叱られて育つのと、どちらがいいか。単純だろう。

 

とはいえ、世の中は盆栽流のほうが多いかもしれない。

なぜなら、盆栽流は自分の規範を他者に当てはめているから、相手の成長やタイミングを待つ必要がなく、たやすい。

剪定流は、指摘すべき事柄を選ぶ知性と、相手のタイミングや成長を待つ忍耐と、自分の期待を手放すことが必要だからだ。


草木も人も、自分の思ったように、思ったタイミングでは育たない。予定調和もない。

そう考えると、女の本能は、育てる、と同時に、待つ、ことのなのかもしれない。

 

「苗をひいてのばさない」 という恩師の言葉を鮮明に思い出した。

 

※大人の中には、自ら盆栽になりたがる人もいるので、その場合は盆栽流否定に該当しません。