塩鮭のライティング遡上

文章力向上のためにひたすら書くブログです。

62:高い指輪を買う理由

くっそ高い指輪を買いました。

それを買う理由を問われて、うまく答えられませんでした。
表面を見れば単なる浪費ですから。
 
なぜかとあらためて考えると、頑張ってきた自分をおのれで認め労おうと思ったからです。
 
わたしが仕事で作る作品は正直あまり売れません。
ですが、わたしは自分の作ってきたものに自信があります。
 
わたしは作品が最終的に行き着くゴールとして常に弱者を見ていました。
見落とされている、本来助けが必要な弱者に救いがあるように。
それはひとえに私自身がかつて見落とされた弱者だったからにほかならず、当時の自分を救うように、いまも見過ごされている弱い人のためのものを作っていました。
 
他者への貢献というよりも、自分のための努力でしたが、自分が喉から手が出るほど必要としていた情報だからこそ、他者の役に立たないわけがないと言い切れます。
それくらい、私の作ったものたちには普遍的な価値があります。
 
とはいえ、今すぐに売れるものが評価されるのは資本主義社会の常ですから、売れないものが評価されないのもまた仕方のないことです。
他者からの評価の低さに疲れ、そして、弱者に目を向け続けることに疲れていきました。
この「弱者のことを考え続けることに疲れた」というのはわたしにとって区切りの合図でした。
 
当事者であり続けたうちは、弱者を救う方策を考えることを原動力に生きていていました。
その原動力で考えうる限りの弱者を救うものを作り倒したら「弱者であったことは日常的にみる必要のない過去」に変わっていったのだと思います。
 
世間一般の感覚で言えばつらい事象のことを考え続けるのは疲れます。
それを四六時中できるのは、当事者かテレサだけです。
「もう考えることが疲れる」ところまで来たことで、人生をかけてやっていた当事者としての弱者パートが終わったと思いました。
だから、指輪を買いました。
指を見れば「ここからは新しい人生だ」と思い出せるように、いつもつけられるシンプルで美しい指輪を。
 
過去は必要ならば共感をもって弱者とともにいられる能力を与えてくれました。
ですから弱者パートをやりきったことを祝うことは私の中ではとても自然なことです。
そうして自分で自分をねぎらってみると、とても満たされた気分になりました。
だれかが認めてくれたらそれは涙が出るほどうれしいことですが、過度な期待を外側にする前におのれで完結するというのは大事なことですね。
 
さて、今わたしはこれが区切りだ!卒業だ!と思っているものの、おそらく明確な区切りはなく、この先も折に触れて弱者パートの波は来るでしょう。その波を自然なことと受け入れ、その時々の区切りを大切にすることで、過去からのギフトを活かしていけるのではと予感しています。
 
という御託を前振りに、次の区切りがきたら買いたいものをリストアップしておきました。
一度きりの人生、ほしいものを買ったほうがいいじゃない? もちろん誰かに買ってもらうのも最高です。