塩鮭のライティング遡上

文章力向上のためにひたすら書くブログです。

51:NOの受け取り方

親しい人にほどNOを言うことは大切です。
それはお互いにより心地よい関係構築になるからです。


ですが、 親しいほどNOを受け入れるのは難しい場合が多いと思います。
今回はお互いにきもちよくNOを受け取るにはどうしたらいいかを考えてみます。


大事なことなので繰り返しますが、まずNOはよりよい関係構築のためのものです。そして、そのNOは相手の存在自体の否定ではなく、より心地よい関係を続ける妨げになっている行為単体に向けた改善機会の提案です。
人格否定でなく言動単体のみに向けられたものであるという認識合わせも重要です。


このように、
・よりよい関係を作りたいから正直にNOを伝えている
・相手の人格を否定していない、むしろ尊重している
・行為にのみNOを示している


これらの前提を踏まえてもなお受け入れ難いときもよくあります。
そのときは自分の傷や投影( 出来事を捉える認知のメガネが曇る原因)について考慮するのが近道です。


なぜなら、いま起こっている問題であってもその認知や対処には、過去の出来事から学んだ方法が適用されている場合がほとんどだからです。
多くの場合、出生家族での出来事とそれに対する適応行動を大人になっても続けていると思います。(もちろん家族由来だけでなく、成長した後の体験や社会的な性別役割といったものもあると思います。)


たとえば子どもの頃に家族の中で嫌なことがあったとしたら、それを想起させるような状況で同じ対応をしがちです。
逆に筋が通らないことも周囲に許容されていた場合同じように許される前提で対処するというのもあるでしょう。


どちらの場合にしても、今の状況と似た体験はないか? そのとき何が嫌だったのか? そのときの対処行動は自分にどんなメリットデメリットをもたらし たのか?
もしいまの自分がその時に戻れたらどんな行動をするか? といった点検をすることが極めて効果的です。


過去のパターンが見えたなら今の関係は昔の古い認知や行動を修正するための機会です。
つまり変えるべきは目の前の相手ではなく自分です。

 

大切な人がNOを言うリスクをとって伝えたことに対して、変わるのは自分だと腹を括れば過去の自分を肯定しつつより今の自分に合った行動を選び直す、 自分に優しい在り方が可能です。
それは自分の課題を見せてくれた目の前の相手への感謝と相手に変わることを強要しない他人に対する優しい在り方も同時に得ることでもあります。


NO、めちゃ良くないですか?
よりよいYESの入口なのですから。


もちろん、 NOを受け取ったうえでお互いが心地よくいられる方法を見つける作業は続きますが、その努力を愛と呼ぶように思います。


自分と相手の双方にYESを言う在り方を見つけ その上に愛を積み重ねられたら、これほど平和で建設的なことはないのではないでしょうか。

 

 

50:当たっても砕けない

心と体が分けがたくつながっていることを感じる瞬間があります。言葉通り、胸の奥があつくなって氷が溶けるように涙が出るとき、自分が喜んでいたのかと気づくことがあります。

 

それは、NOを受け止めてもらえたときです。

 

Noは「あなたのことが好き。でもその行為はつらい。 だから相談しよう」のサインです。


相手の存在にYESと言っている人に対して、相手のことが大切だから、同じように自分も大切にしてここちよい関係をはぐくみたいと伝える、一見ネガティブに見えるけど前を向いたポジティブな行為です。

 

ですが、相談に行きつく前に、相手のNOを否定せず受け止めるのは意外に難しいことのようです。

 

当たったら石が砕けるような関係が多い人生でしたが、それでも、Noも受け取りあえる関係がいい。なぜならそれが血の通った関係の要だからだ、と決めていました。

決めておきながらもそんな人いるのだろうかと疑いたくなることもありましたが、砕けないこともあると知りました。ありがたいことです。生きてればよかったと思うことも起こるものですね。

 

NOの扱い方はまだ書きたいことがあるので次回に続きます。

49: 愛する人にNOを言う

NOを言うのは骨の折れる作業です。

だからこそ恩恵も多いと思っています。


愛する人に見返りなく与えるのは美しい行為ですが、私を含めたいていの人間のキャパシティは有限です。

愛する人の希望をかなえてあげたい。その一方で自分もまた、幸せな状態でいたいのです。それも自然なことです。

(容量制限がなかったらその人は仏だと思います。 即身仏として崇めるのでどうか紹介してください。)
 


境界線を越えて何かを与えた場合、その愛が憎しみにも変わりうるのも人間です。


えてして、与えた側は過分に出したと思う一方、 与えられた側はそれが当たり前と思いがちで、 後からその帳尻を合わせることは難しいように思います。
帳尻があうという「感覚」は物質や金銭の多寡で換算できません。
過分に出した、つまり何かを我慢して相手に与えたと思っている場合、時間が経つほど我慢にかかわる負の感情は借金のように膨らんでいくため、 相手からどれだけ与えられても永遠に満たされない可能性をはらんでいます。

 

終わりのない帳尻合わせを続けるとしたら、愛し合っているふたりであるにもかかわらず、その関係はどこか地獄の香りがします。


ということを鑑みるに、限界があることを認める分別もまた、自他の幸福に資するのではないでしょうか。


自分のNOを認識しているにもかかわらず相手に伝えられず、自分が我慢して相手に尽くしたと怒りを抱えるパターンはよくあります。
だからNOを認識したら相手に伝えるまでがセットです。


境界線つまり自分の嫌なこと-NOを認識して伝える。
そのうえで見返りがなくてもいいと思えるところまで与えられるならそれは愛かもしれないし、 そんなの無理と認めて与えないと決めることもまた愛だとも思います。


愛する人にNOを言い、境界線を示すことは一見冷酷に見えます。

愛していればこそ境界線が明確になると孤独も分離も感じます。
言う方も言われる方も疲れます。
だからこそ、お互いに歩み寄って境界線を変更できたときに感じる喜びがどれほどのものかはかり知れません。

 

表面は綺麗だけど破綻した愛と泥臭く面倒くさいが通じ合う愛。
どちらがいいか。わたしは後者を選びます。


好きな人にNOを言うのはつらいです。凡人のわたしは人間のまま容量無制限のホトケになれる気がしないので、来世は虫か仏のどちらかがいい… と書いている途中、昭和の奇人系アイドル戸川純のコンサートの宣伝が入ってきました。


蛹化のおんなという愛がねじれて冬虫夏草になってしまう物語をうたった彼女のCDを中学生のときに理科の先生から借りたことを思い出します。
今になって虫になる気持ちがすこしわかってしまったメンヘラぶりが大変恥ずかしいし冬虫夏草にはなりたくないので、やっぱり生まれ変われるのなら仏がいいです。

 

 

48:男の育て方

女が女に嫉妬を向ける姿は美しくないし根本的な解決にならないとしたら、もっと平和で洗練された解決方法はあるのでしょうか。

(対症療法的解決を繰り返すメロドラマを楽しむ人もいます。すべては趣味で自己選択ですがわたしは嫌です。)

 

それは、「男に行動で責任を取らせる」ということです。

参考になる事例があったので書き留めておきます。

男女ペアで参加を予定していたイベント直前に、男性がドタキャンしようとしたことがありました。

彼がキャンセルをすると、女性は相方不在でイベント自体へ参加できなくなってしまいます。彼女はイベントを楽しみにしていましたし、もう返金もできません。

 

そこでどうするか。

A:自力で代役を見つける

B:彼に見つけさせる

 

Aを選択した場合、男は自分の都合でキャンセルするにも関わらず、何も苦労しないことになります。これではまた同じことを繰り返します。

 

ですから正解はBです。

自分の都合でキャンセルをするなら、自分はいけないけれど君には不自由させないという誠意を、代理で参加してくれる友人を探すなり主催者に頼んで代行を探してもらうなりの「行動」で証明してもらうのです。

 

言われなくても自らそうできる男性は素晴らしいです。言うことありません。

が、そうではない場合も学習してもらうことはできます。

 

女性に必要なのは、男の勝手の尻ぬぐいをせず、男性に自分でしたことの責任を取らせることです。

 

女が自分から動いては、いい男に育たないのです。

 

47:嫉妬解剖

男女が入り混じる社会はいつだってゴシップに事欠きません。
ここ1カ月ほど、身近で同日に複数の修羅場が起こるというアメージングな事件のうわさでもちきりでした。
 
しかし不思議なのは、男が浮気したときに女は相手の女に敵意を向けるケースが多いことです。冒頭の修羅場のひとつでは彼女と浮気相手のキャットファイトが繰り広げられたそうで。
 
以前のブログでも書いたのですが、女に敵意をむけて排除したところで浮気する男は繰り返すと思うのです。何らかの不満があるから浮気をするわけでしょう。(下半身動物獣男は不満などなくても繰り返すので除外します。)
 
キャットファイトまじこえええ」と男が恐れおののいた一瞬はなくなったとしても、根本原因が解決されていなければまた繰り返すように思います。
 
なぜ男と話しあわないのでしょうか。不満なり齟齬なり話し合ってたいていのことは解決できます。解決できないなら別れて他の人と付き合ったほうが人生有意義です。
 
好きだから眼鏡が曇るのでしょうか。恋は盲目。
うーん、でも眼鏡が曇っているから変な男つかむんじゃなかろうか。
 
長い間理解できなかったことに歴史本が答えをくれました。室町は今日もハードボイルドという本です。
 
中世は「うわなりうち」という復讐習慣があったそうです。
うわなりうちは、浮気の末にくっついたカップルの女側に、浮気された側の近親者が大挙しておしかけ、その女を殺す、あるいは台所や家財道具を壊すというものです。こっわ。女の嫉妬。つか男どこいった(もげろ)。
 
時代が下るにつれ命までは奪わず家財道具を壊すだけと穏便になっていきますが、江戸時代まで存続していたそうです。
 
著者は、うわなりうちは一見「強い女」の行為に見えるものの一夫一妻多妾制における弱者の行為だといっています。
中世に乱婚状態から一夫一妻制になったものの事実上は一夫一妻多妾制。
いつ追い出されるかわからず自らを守るために正室が妾を蹴落とすわけです。自活する手段がなく、正室か妾かによって人生が大きく変わってしまう女性は、正室すらも「弱者」ではないかと。
 
至極筋が通っています。
 
妾はさらに弱い立場になるわけですから、弱者同士を敵対させて自分は自由にしているなんとも卑怯かついやらしいやり方です。(男もげろ)
 
結論として、女が女に嫉妬を向けるのは男に人生が左右される時代が長く続いたために獲得せざるをえなかった習性であって、女が生来的に持っている特質ではないということです。
 
たいへん納得します。すっきりしました。
 
それでもなお、現代においても女が女に嫉妬する事例は枚挙にいとまがありません。
男は浮気する性分というのが常識のようにいまだに許容されまかり通っていると思うとはらわたは煮えくり返りますし(もげろ)、嫉妬をまき散らす女も文化的でないので見るに堪えません。
文句はさておいて、自分がまっとうな男女に囲まれるように準備をするほうがよほど建設的です。
 
時代遅れな泥沼嫉妬と無縁に、健全で平和な現代的ラブライフを送るにはどうしたらいいか?
今日のしめはこちらです。
 
健全かつ平和な現代的ラブライフ計画(女向け)
・金を稼ぐ(男がいなくても生きていける)
・よく話し合える関係をつくる(とくにネガティブ事項)
・いいセックスをする(不満ってたいていここじゃないの?)
・いざとなったらさくっと別れる胆力を鍛える(自分のよかった点わるかった点を振り返れれば次はもっといい人に出合える)
というところでしょうか。
 
これにより、獣でなく人間に進化した男性を選べるようになると思われます。
また、これらを理解しているという条件で(今満たしているかはさておき)友人を選ぶことで、歴史的習俗から脱却した女友達が増え、健全かつ平和な世界に住めると想定していますがいかがでしょう。
 
突き詰めると叶恭子さまになる気もしますが、うわなりうちに参加するよりファビュラスですね。

46:古いパターンを修正する

古いパターンを繰り返すことがあります。


わたしのやりがちなパターンは、自尊感情をないがしろにして目先のメリットを優先するというものです。

無礼な扱いを受けても、他人と比べて見下げられている感じがしても、メリットがあるとそれを我慢してしまうというのは、過去にそういう方策で生き延びたという履歴によるものです。

 

陥りがちなパターンがわかっていても、反射的に反応すると同じ事をやります。
やったとき、繰り返してしまうこと自体を責めず、それに気付いて修正すると自己肯定感が高まります。

 

不健康なパターンがあるとき、損切がとくに大事です。自尊心をもって、一見メリットに見える無礼な人間を自分の人生に入れないことで、後からもっと心地よく調和した関係を招き入れるための余白を作るということです。

 

不具合も 、そこから学ぶなら、いい人生のための材料になります。

45:Doing の愛、 Non-Doingの愛 

愛してるとは不可思議な動詞だと思います。
動詞ではあるものの、行動を指す動詞ではありません。

実際の行動は、愛しているから●●する、と別の行為が現れます。

 

愛というのは美しい言葉です。

だから愛しているから何かをする-Doingの愛は、別の目的の隠れ蓑に使われやすく、えてして無自覚に愛の名のもとに他人を操作しようとする人も多いものです。

偽物の例は、見返りを求める場合や、「あなたのために離婚しないのよ」と壊れた夫婦関係を続ける理由を子供への愛とすりかえるパターンです。

本来的なDoingの愛は、相手から見返りがなくても、自分がやりたいから何かをするということだと思います。  

 

 Doingの愛だけでなく、Non-Doingの愛もあります。


Non-Doingの愛は、正確に言うと、相手の自由意志を尊重する、ということです。その人を変えようとしない、ということです。


愛している人に、”自分が期待している通りの方法で”愛を返してほしい、と思うのは人情です。

そう思うのは自然ですが、その通りに相手を動かそうとするのは、愛ではなく支配です。

 

かつてわたしもそのように試みたことがありますが、幸い、私の愛する人は操作されてはくれませんでした。

愛し合っているけれどわかりあえないこと、お互いの距離が埋まらないことに落胆しました。同時に、私もまた、愛する人の期待通りに動かなくていいということを学びました。

 

愛しているけど何もしなくてもいい。愛していることと、行動は別のものです。  

相手の反応がどうであれ、自分がしたいからするDoingの愛と、相手に変わることを求めないNon-Doingの愛。

 

どちらもがあってよく、どちらもがあるから健全な愛になるのだと思います。