塩鮭のライティング遡上

文章力向上のためにひたすら書くブログです。

49: 愛する人にNOを言う

NOを言うのは骨の折れる作業です。

だからこそ恩恵も多いと思っています。


愛する人に見返りなく与えるのは美しい行為ですが、私を含めたいていの人間のキャパシティは有限です。

愛する人の希望をかなえてあげたい。その一方で自分もまた、幸せな状態でいたいのです。それも自然なことです。

(容量制限がなかったらその人は仏だと思います。 即身仏として崇めるのでどうか紹介してください。)
 


境界線を越えて何かを与えた場合、その愛が憎しみにも変わりうるのも人間です。


えてして、与えた側は過分に出したと思う一方、 与えられた側はそれが当たり前と思いがちで、 後からその帳尻を合わせることは難しいように思います。
帳尻があうという「感覚」は物質や金銭の多寡で換算できません。
過分に出した、つまり何かを我慢して相手に与えたと思っている場合、時間が経つほど我慢にかかわる負の感情は借金のように膨らんでいくため、 相手からどれだけ与えられても永遠に満たされない可能性をはらんでいます。

 

終わりのない帳尻合わせを続けるとしたら、愛し合っているふたりであるにもかかわらず、その関係はどこか地獄の香りがします。


ということを鑑みるに、限界があることを認める分別もまた、自他の幸福に資するのではないでしょうか。


自分のNOを認識しているにもかかわらず相手に伝えられず、自分が我慢して相手に尽くしたと怒りを抱えるパターンはよくあります。
だからNOを認識したら相手に伝えるまでがセットです。


境界線つまり自分の嫌なこと-NOを認識して伝える。
そのうえで見返りがなくてもいいと思えるところまで与えられるならそれは愛かもしれないし、 そんなの無理と認めて与えないと決めることもまた愛だとも思います。


愛する人にNOを言い、境界線を示すことは一見冷酷に見えます。

愛していればこそ境界線が明確になると孤独も分離も感じます。
言う方も言われる方も疲れます。
だからこそ、お互いに歩み寄って境界線を変更できたときに感じる喜びがどれほどのものかはかり知れません。

 

表面は綺麗だけど破綻した愛と泥臭く面倒くさいが通じ合う愛。
どちらがいいか。わたしは後者を選びます。


好きな人にNOを言うのはつらいです。凡人のわたしは人間のまま容量無制限のホトケになれる気がしないので、来世は虫か仏のどちらかがいい… と書いている途中、昭和の奇人系アイドル戸川純のコンサートの宣伝が入ってきました。


蛹化のおんなという愛がねじれて冬虫夏草になってしまう物語をうたった彼女のCDを中学生のときに理科の先生から借りたことを思い出します。
今になって虫になる気持ちがすこしわかってしまったメンヘラぶりが大変恥ずかしいし冬虫夏草にはなりたくないので、やっぱり生まれ変われるのなら仏がいいです。