塩鮭のライティング遡上

文章力向上のためにひたすら書くブログです。

35:与える理由

人に何かをあげるとき、その理由を立ち止まって考えるようになりました。

同じものをもらうのでも、それが喜びを生むかどうかは理由と背景によって大きく異なるからです。


一個食べるだけで、もうえも言われず幸福になる、大好きなお菓子があります。

でも、めったに市販されていないので食べようと思ったら作らないといけないんです。


これを作るのが上手な友人がいて、彼女が息子のためにつくることがあります。

息子も友人なのですが、彼から食べたくないからあげると言われたとき、わたしはそのお菓子が大好きだけど受け取りませんでした。

いらないものをもらうのはまったくうれしくありません。

わたしはゴミ箱じゃないし、彼女が彼のためにつくったという行為が捨てられているようで悲しかった。

 

親子だからこそ愛が負担になりやすいことも事実で、彼にとって重すぎるというのも理解します。

一方で、過剰な愛をどう扱うかは彼と彼女の問題であって、わたしにその緩衝材をする義務はありません。 

 

逆に、わたしがそのお菓子に目がないと彼女も知っているから、あなたのために作ったんだよと言ってもらったときはとてもうれしかった。

それは、相手の好意とわたしの希望とが合致しているからです。

お菓子のおいしさだけでなく、彼女がわたしのことを考えて作ってくれた時間や作業が加わって、幸福が二倍にも三倍にも増えます。

 

この話の本質は、

何かを与える理由が、ギブする人の自己都合だと不快に感じ、相手の意向を確認して合致していると心地よく幸福が循環する、ということです。

 

相手がほしいものと自分があげられるものの調和がとれたものを与える、それが循環する愛だと思いますがどうでしょう。

双方に意思があるから、ほしいものと与えたいもののミスマッチは当然生じます。

そのとき、お互いのニーズを調整できることも愛のひとつのようにも思います。

 

とはいえ、親子は難しい。

わたしはいま、母から送られてきた巨大なシュトーレンを目にして立ち尽くしています。

経緯を聞くべく電話したら、うれしそうに入手経路を語る母。

無下にいらないとも言えない子供心。

気持ちはありがたいが、食べきれないよ…お母さん。

今度は送る前に一緒に確認しようね。