塩鮭のライティング遡上

文章力向上のためにひたすら書くブログです。

65:親の期待に応えるというマスターベーション

バットマンを観てきました。
セリーナの美しい横顔は眼福でしたが、内容の薄さとアクションのみで3時間は長い。尻が痛い。
そしてブルースがきもちわるいわ、、、と悪態をついて帰ってきました。

何が気持ち悪いかって、ブルースの親離れできてなさを男の美学として表現しているのがクソ気持ち悪い。

以下ネタバレです。


一緒に街を離れて暮らさないかというセリーナに、ブルースは俺にはゴッサムシティを守る使命がある(キリ)と大義名分を大仰に掲げて別れるのですが、分かれ道でセリーナを見送るまでの並走シーンの長いこと。しかもセリーナの去った後をじっと見つめるシーンのさらに長いことよ。

ここ、哀愁を誘う場面を意図しているのだと思うのですが、わたしは、ええ、なにこれキモイ。とコーラを握りつぶしました。
未練たらたらなのが明白。好きな女の尻を追いかけられない男って何なの?
それ、結局親離れできてないだけじゃん?

ちゃんちゃらおかしいわ。尻の痛さが倍増してしまったわ。腹立つわー。

ブルースは小さいときに親を殺されたので、両親が大事にしていたゴッサムシティは形見のようなもので、シティを守ることで親への愛を表現しているように見えるのですよ。

子どもの親に対する愛って純粋で無償なので、それ自体は分からんでもないのですが、
ええ大人がいつまで母の乳求めてんねんと腹が立って頭どつきたくなるのです。

独り身のときは感傷に浸ったらええが、好きな女ができたらさっさと母を捨てて女を選べよ、そのほうが母も喜ぶぞと。

親に対する愛って、マスターベーションみたいだと思うのです。
何も生まれないし終わりがないから。

子どもの親に対する愛って痛々しいほど純粋で美しくはあるのですが、子どもの認知で考えることには限界があるんですよね。

ブルースにゴッサムシティを守ってほしいなんて親は言ってないけど、幼い子どもが考えた最良の手段としてバットマンをやるわけです。

でも、いくら倒しても敵は出てくるし、街を守っても親は返ってこない。

そして正義の味方のはずなのに、サイコパスに好かれまくり、次のサイコパスを呼ぶループ。

何も変わらんやん?何も生まないやん?
生産性がないどころか、不幸を自ら再生産しているとすら思えます。
親は死んでいるし、一生懸命考えた愛の手段が親の意にそうか、それをもって愛が返ってくるかはいつまでも答えは出ません。

親に愛されたいために使ってるその生命力を使って女の尻を追ったほうがいいと思うけどな。
セリーナかわいいし、一緒に街を出て暮らさないかとまで誘ってくれてるし。
ゴッサムシティを出て、農夫にでもなってセリーナと暮らしていたら、
バットマンしてたことも、親のために頑張ってたこともどうでもよくなっちゃうんじゃないのかね。

子どもが考えた手段では誰も幸福にしないと気付き、同じエネルギーを自分もしくはパートナーに向けられるほうが、親も幸せだと思うがどうでしょうかね。
少なくともわたしは親など捨てて女を選べる男が好みです。親を捨ててもそれがライトなディレクションならば親との縁は返ってくるし。

苦悩煩悶する若い御曹司(イケメン)が、サイコパスに好かれまくってドカンバコン騒ぐ、というエンターテイメントとしては面白いので、こき下ろしてるけど普通に好きです。
続編も悪態つきながら観ます。

64:ある光と祈り

通っていた小学校は自由度の高い校風で、帰りのホームルームで流行のポップスを大合唱していました。
そこで聞いた歌詞とハイトーンボイスにキュンとして以来、小沢健二のファンです。

サブスクリプションには入っていないその曲をyoutubeを漁ってきけたのでちょっと感動しました。
小沢健二/戦場のボーイズ・ライフ - YouTube

久しぶりに聞いていて、医宗一如光という言葉を思い出しました。

医療と宗教は同じものであってそれは根源の光から発生するものだ、という意味で、ある民間療法を開発した医師が作った造語です。

この言葉と一緒に、私の目を直視できないといって私を振った人のことも思い出しました。

当時その人の言動が理解できませんでしたが、彼は私個人を越えたものを見ていたのかもしれません。

民間療法から離れてしてきた仕事もこの言葉の延長線にあって、祈りであり愛でした。
自分が救われること、親に居場所ができること、同じような苦しみを抱えた名前も知らない人たちの救済であるように。
決して高い評価を受けるものではありませんが、わたしは自分が作ってきたものたちが光から産まれたものだという確信があります。

そうして確信を持てた今、目を見られないと言ったその人は医宗一如光という言葉で表されるものをわたしを通して見ていたのだろうと思います。直視できないまぶしいものが、根源の光であれば納得がいきます。

確信があってもなお、わたしにできることは小さく、わたしが救えるものも少ないままです。
それが悔しくて自分が無価値に思えてならなかったけれど、年月を経て自分の小ささにいとおしさを覚え、手が届く少ない人たちを愛しまた愛されていると感じられるようになりました。

自分の小ささも、もてるものの少なさも、それでいいと思えるようになったのだから、
何のためかわからなかった祈りは神に届いているのかもしれません。

桜が咲き、新しい季節が来ます。

63:自信の出所

他人の色恋は示唆に富むものがあります。

 

先日ある男性が結婚しました。

彼には傍から見て明らかにアレな関係とわかる同僚(人妻)がいます。

彼と人妻が働く店を新妻が訪れ、当然三つ巴修羅場になるのですが、彼は新妻に仕事場へ二度と来るなときつく当たったそうです。 え…新婚なのに…?

 

それならばと、妻は夫に転職するか離婚するかどちらかを選ぶように迫り、結局転職させ人妻との関係を清算させた旨を周囲に言ってまわり一件落着。

そう親しくない私の耳にもこうして詳かに顛末が聞こえてくるほどに夫の周辺広範囲に予防線を張るところまで完成したわけです。

 

状況から推測するに、夫は人妻に未練があるものの離婚のめどが見えず別の人と結婚したのでしょう。あわよくば人妻とも仕事と称して継続できるグレーな状況を望んでいたのかもしれませんね。もげろ。

しかし、新妻は素晴らしい仕事ぶりながらもったいない。

 

なぜか?

ここで対照的な夫婦を見てみましょう。

夫が女性と会うのを面白おかしく見守る妻という例があります。
趣味で1対1で女性と会うことが多い夫ですが妻は口を出しません。
時々差し入れを持って趣味の集まりへ行き、女性たちと仲良く記念写真を撮るオープンさです。
彼は女性と二人きりで会う場合も、飲みにいくこともなく練習したら帰ります。
週末ごとに嫁とのお出かけ写真や嫁のために作った料理をSNSにアップするなど、嫁に対する献身エピソードはうらやましいを超えて笑ってしまうほどです。
 

この夫は嫁に直接する愛情表現に加えて、周囲の女性には疑わしくならないようにふるまっています。嫁は夫の明らかな愛情表現によって自信を持っており、夫の交友関係を見守る余裕があります。夫が妻に自信を供給しているのですから平和です。

 

翻って、前者の夫はすくなくとも周囲から見て嫁が誤解するような行動をとっています。ですから嫁は夫から自信を得るのではなく、激しい行動で夫周辺の疑わしい人物を現在未来にわたって排除するしか自信を得る手段がありません。

 

夫の妻本人そして周囲への態度で、妻に自信がつき行動が変わるのですからわかりやすいものです。

 

これだけを見ると妻に愛情を注がない男もげろとなりそうですが、皮肉なことに愛情≒自信の供給源は他者ではなく自分です。

くだんの新妻の実務遂行力がいくらすばらしくても惜しいのは、おそらく自分に自信がないので自分のことをそこまで好きではない人を好きになり、執着するループに本人が気づいていないのだろうことです。

 

書いていて耳も胸も痛いのですが、自信がないときほど自分のことを好きではない男に惚れるというのは女あるあるではないでしょうか。

自信がないので自信をつけてくれそうな人と付き合うものの、相手の心が自分にないので代償的な行動をとり、その行動から自信がないことが周囲にもわかってしまう。つらい。

 

男に頼らず自信をつけたときにそれを強化させてくれるような人と縁ができる仕組みであれば、結局は自分で自分の世話をするのみなのかもしれません。

 

身につまされるゴシップでした。

 

62:高い指輪を買う理由

くっそ高い指輪を買いました。

それを買う理由を問われて、うまく答えられませんでした。
表面を見れば単なる浪費ですから。
 
なぜかとあらためて考えると、頑張ってきた自分をおのれで認め労おうと思ったからです。
 
わたしが仕事で作る作品は正直あまり売れません。
ですが、わたしは自分の作ってきたものに自信があります。
 
わたしは作品が最終的に行き着くゴールとして常に弱者を見ていました。
見落とされている、本来助けが必要な弱者に救いがあるように。
それはひとえに私自身がかつて見落とされた弱者だったからにほかならず、当時の自分を救うように、いまも見過ごされている弱い人のためのものを作っていました。
 
他者への貢献というよりも、自分のための努力でしたが、自分が喉から手が出るほど必要としていた情報だからこそ、他者の役に立たないわけがないと言い切れます。
それくらい、私の作ったものたちには普遍的な価値があります。
 
とはいえ、今すぐに売れるものが評価されるのは資本主義社会の常ですから、売れないものが評価されないのもまた仕方のないことです。
他者からの評価の低さに疲れ、そして、弱者に目を向け続けることに疲れていきました。
この「弱者のことを考え続けることに疲れた」というのはわたしにとって区切りの合図でした。
 
当事者であり続けたうちは、弱者を救う方策を考えることを原動力に生きていていました。
その原動力で考えうる限りの弱者を救うものを作り倒したら「弱者であったことは日常的にみる必要のない過去」に変わっていったのだと思います。
 
世間一般の感覚で言えばつらい事象のことを考え続けるのは疲れます。
それを四六時中できるのは、当事者かテレサだけです。
「もう考えることが疲れる」ところまで来たことで、人生をかけてやっていた当事者としての弱者パートが終わったと思いました。
だから、指輪を買いました。
指を見れば「ここからは新しい人生だ」と思い出せるように、いつもつけられるシンプルで美しい指輪を。
 
過去は必要ならば共感をもって弱者とともにいられる能力を与えてくれました。
ですから弱者パートをやりきったことを祝うことは私の中ではとても自然なことです。
そうして自分で自分をねぎらってみると、とても満たされた気分になりました。
だれかが認めてくれたらそれは涙が出るほどうれしいことですが、過度な期待を外側にする前におのれで完結するというのは大事なことですね。
 
さて、今わたしはこれが区切りだ!卒業だ!と思っているものの、おそらく明確な区切りはなく、この先も折に触れて弱者パートの波は来るでしょう。その波を自然なことと受け入れ、その時々の区切りを大切にすることで、過去からのギフトを活かしていけるのではと予感しています。
 
という御託を前振りに、次の区切りがきたら買いたいものをリストアップしておきました。
一度きりの人生、ほしいものを買ったほうがいいじゃない? もちろん誰かに買ってもらうのも最高です。

61:軍事力あらため紳士淑女のマジック

昨年末に料理軍事力論を展開していましたが、考えが変わったので撤回します。

 

 

「他者に貢献することが自分のためになる」というのは一見いいことに見えますが、結局は自分の利益のためであって損得勘定ですね。

 

 

わたしが軍備増強!と鼻息を荒くしているときに、友達が違和感を指摘してくれていました。

 

「男のためでなく自分のために好きなものを作ろう」

自分の好きなものを作る。好きなものを一緒に食べたいと思う人を呼ぶ。そこに性別は関係ないよ?と。

 

 

刺さるものがあり、自分の食べたいものを作っていたら自然とレシピも増えました。

今は単純に料理が楽しいです。

 

自分が食べたいものを作り振る舞い合うなら男女も損得も全部無くなりますね。

 

考えすぎて変な方向に行きがちなところを、ちょっと待てと笑いながらコメントしてくれる友達には感謝しかありません。面白がってくれてありがとう。

 

 

別の友人は、料理軍事力論に「メアリーポピンズのような淑女のクッキングマジックなら、平和のための抑止力になるかもね」とコメントをくれました。

 

目から鱗。料理軍事論のときには、商品価値を上げて自分にメリットをもたらさねば・消費される側でなく支配する側に行かねば、と危険な強迫観念と戦争の香りが渦巻いていました。

美味しいものを食べたい・好きな人と共有したいに動機がシフトしたら、争いが消えて調和した感じがします。

 

好きなものを作りあいシェアするのが料理であるなら、間違いなくそこにあるのは平和です。

淑女のクッキングマジックとはなんと素敵な響きでしょうか。

 

話はそれますが、料理軍事力論から離れて初めて、自分は祖父や歴代の彼を筆頭に身近な男性にたくさん料理を作ってもらいっていたことに気付きます。

男性が自発的に料理をしない場合も「男だからしないのか?性別がなぜ理由になるのか?わたしも人が作ったものを食べたい」と硬軟混ぜて啓蒙し、お互いが料理をする状況を作っていました。

 

料理は美味しいを共有する平和をもたらします。

そして性別に関係なく誰でもできます。

ですから、友人の美しい言葉にもう一歩踏み込んで、料理は紳士淑女のマジックと言いたいと思います。

 

さて、今日のごはんは昨日作ったクミン入りサルシッチャを食べます。

美味しいがあれば、どんなときも平和です。

60:自分以外の何者にもならなくてよい

ほかの誰かになろうとしなくていいというのは、こんなにも軽ろやかでうれしいものなとかと思う夜がありました。

精神的負荷が大きいイベントを控えた友達とごはんをしていて、「そのイベントをやろうとするあなたはすでに頑張っているのだから、その前後にふかふかのクッションを用意して、十二分に自分を甘やかすのだ」という話をしました。
おいしいものを食べ、イベント後には温泉旅行でも行こう。すきなもの全部盛りにしていい、と。

張りつめていたのか友達の目に涙が見えたので、人目も気にせずはぐはぐして温かいケーキを食べました。

翻ると、自分の人生から口をついて出た言葉が大切な人の助けになるというのは思いもよらぬ贈り物でした。

クッション装備はわたしが与えられた環境で育てた良心のようなものです。
自分が難事に臨んでいた当時を思うと、各種の甘やかしをもってしても精神的に苦しかったです。難事はやらなければいけないことであり、やりたいことでもありました。なぜ自分がこんなことしなければいけないのだと思うこともありましたから、もし無理をして頑張り続けていたら他人への呪詛や嫉妬に変わっていたかもしれません。
だから、自分えらいとクッションてんこ盛りにすることで擦れずに育ってきたと思います。


自分の体験がそのまま友人の心を軽くしたこと。
そういう話をしあえる友人を大人になってから作れたこと。
何者かになろうとせず私はわたしのままで他人の助けになれること。

それらが何重にもうれしくて、生きてきてよかったなと思いました。

その日は満月で、有楽町のビルの隙間から満月の写真を撮って帰りました。
漱石ではないですが、大切な人と月がきれいだねと言い合える瞬間を幸せと呼ぶのですね。

59:タントリカになって何が変わった?(イベント告知)

瞑想フレンズの女子3人でオンラインイベントをします。

女性のみの会。ミニワークもついて、無料です。3/9 21:00〜。

タントリカになって何が変わった?

案内文は別のものを使いましたが、思うところを書けたものを残しておこうと思います。

 

ーーーーー

タントラを実践する人をタントリカと呼びます。

タントラは性を通して生と向き合う瞑想の技法です。

 

世の中にはたくさんの瞑想がある中から、どうしてタントラに来たの?

タントラで何が変わった?

今、どんなことをしたい?

そんなことを3人のタントリカ女子がオープントークでおしゃべりします。

 

技術の進歩による一部の例外を除いて、わたしたちはセックスから生まれてきます。

性には人間を誕生させるだけのエネルギーがあるからこそ、卑しいものとして扱われてきました。

 

性の大きなエネルギーは自分のために使える可塑性のあるものです。

ですが、性を悪・恥と抑圧したままそのエネルギーを余すところなく使えるでしょうか。

 

セックスに対してあなたはどんな感想を持っていますか?

パートナーはどんな幻想をあなたに投影しているでしょうか?

 

体験してきたセックスはどのようなものだったでしょうか。

満足でしたか?それとも2度としたくないと思うようなものでしたか?

 

セックスほど社会に操作されているものはありません。

巷に溢れる男性優位のポルノグラフィや所詮こんなものだと諦めたものと、

タントラで語られるセックスは、まったく異なるものです。

 

タントラはフリーセックスでヒャッハーなところではありません。

むしろ自分が見たくなかった、隠しておきたかった劣等感も嫉妬も洗いざらい出てしまうエグい場です。

見たくないものを見るからこそ、その後には美しいものもたくさんある。そういうスペースです。

 

性とはセックスの行為だけを指すものではなく、自分のセクシュアリティを肉体そして感情を通して感じることです。

そのために、相手がいます。

お互いが自分自身を発見するために、タントラがあるのだと思います。

 

3人のフリーダムなおしゃべりと官能たっぷりのミニワークで、タントラの世界を覗いてみてください。

飛び込むあなたを歓迎します。