誰にでも、いやでも関わらねばならぬ人がいますね。
親だったり、配偶者であったり、会社の人であったり。
かかわらざるを得ない人というのは、自分の最も見たくないものを見せてくれるギフトだと実感した話をしましょう。
わたしの関わらざるを得ない他人はモラハラおじさん。
もう10年近く格闘してきました。
特徴を挙げると、
自分だけが賢いと思っている、他人の努力を否定する言動。
謝らない、弱い人に怒鳴ったり怒りを発散する。
一方で、同じだけの声で威圧すれば静かになる。
自分の非は認めないけど自分が思いついたように間違っていた点は変更はする。
おじさんの行動だけをみたら最悪です。
自分が劣っている気持ちになり何をやっても無駄と無力感が募りましたが、ナニクソと闘志を燃やして頑張ってきました。
言い方に難があるもののアドバイスは的確だし決して愛のない人ではないと、できるだけおじさんの良いところを見ようと努力してきました。
ですが、譲れない倫理観の相違ではじめておじさんと口論をして、もうこの人は変わらないし良いところを探しながら付き合うのは無理だと諦めました。
そして、おじさんを諦めた途端におじさんと同じことをしている自分を見つけてしまったのです。
別のところで、わたしは声高に異論を認めず正論で他人を罵倒していました。
やべえ、大嫌いなおじさんとわたし同じじゃねえか。ショックです。
しかし、おじさんと自分が同じであるなら、逆に想像できることもあります。
おじさんは才能のある人です。
世の中で何が起きているか客観的に見られる感受性があり、見えている世界を言葉で説明できる知性を持った人です。
子供の頃、この人の感受性はもっと純粋だっただろうし、言葉は全てを十全に説明しうるまで発達していなかったでしょう。
わたしは、子供の時自分が見えるものをいくら言葉を重ねて説明しても否定されたり、一見受け入れても何も変えない大人に接してきました。
おじさんにも子供時代に同じような抑圧があると仮定したら、
その諦めから、自分以外は馬鹿だと思う気持ちがわかります。
その絶望から、他人を否定する気持ちがわかります。
その悲しみから、怒り怒鳴り解ってほしいと叫ぶ気持ちがわかります。
性別・環境によって間違った方法をとっているだけで、子供時代に抑圧されたエネルギーの質ー言い換えると才能の質は同じなのだ。
そう思ったら、何かが解けていく気がしました。
私は人間なので、実際におじさんと接したらムカつくし、積極的に関わりたいとは思いません。
実際の行動は変わらないけれど、無理に良いところを探そうとしていた時とは別の質のCompassionが生まれたのだと思います。
予想するおじさんの歩んできた背景は共感を持って受容する。
一方でおじさんが現実にしているモラハラは許容しない。
モラハラと積極的に関わりたいと思わない自分を許可する。
おじさんに対するcompassionと自分の境界線を同時に持っているような感じです。
ここまで問題を分解できた満足でcompassionとともにおじさんを手放したら、面白いことに現実が変わっていました。
褒めるの、他人を、おじさんが。
結果に関わらず、その人のやったことを認めるの。
びっくりしました。
ちょっと泣いちゃった。
側から見たら変化してようやく普通ですが、それでも元の酷さを考えたらすごいことです。
男性の方が自分の癖を変更するのはプライドが邪魔することが多いと思います。
壮年といわれる年齢でなお変われたことに、おじさんの知性と勇気を感じました。
おじさんの小さくて大きい変化を心から祝福し自分のことのように嬉しく思っています。
ところで、身体的には男性として生きている両性具有な友人曰く、男にはちょっとでも褒めると調子に乗って努力を怠る習性があるそうです。
男版わたしとも言えるおじさんには、いつまでも成長してほしいという願いを込めて、すごいねなどとは決して言わずに見守ろうと思います。