塩鮭のライティング遡上

文章力向上のためにひたすら書くブログです。

33:いつまでも悲しくてもいい

今日はグリーフの話をしようと思います。
 
身近な人が亡くなった後、悲しいですよね。それをグリーフ、悲嘆と呼びます。
その悲しさは、放置したり我慢してなくなるものではなく、サポートやケアが必要なものです。
 
グリーフという概念は日本ではまだあまり知られていません。
人口に膾炙するまでにはあと20年くらい必要かもしれませんが、間違いなくスタンダードになっていく類のものです。
 
誰もが死別を経験するにもかかわらず、こころない言動を頻繁に見聞きするので、声を大にして言います。
悲嘆のケアは、人間の基本的なニーズで、健康の要です。
 
父が亡くなって20年がたちまして、もうグリーフは卒業と思っていたのですが、まったくそんなことはありませんでした。
 
酒の席で身の上話が進んで、友人とお互いの家族環境の話をしたんですね。
すると、私自身の家族のことを話しているとき、声がみるみる硬くなることがわかるんです。
うつ病の有病率や日本の自殺率や自死が残された家族に与える影響について、できるだけ科学的に、わかりやすく医学的に、 鎧を着込んで話す自分に気づくわけです。
相手がどう反応するかわからないから、無神経な言葉を投げられないように、傷つかないように、涙がこぼれないように細心の注意をはらう癖がついていることに。
 
もうさんざぱら悲しんだし、父の死が無駄でないと思えるように仕事をしてきたし、できることはやりきったから、父の死は他人に同情されるような不幸ではなく、わたしの糧になったと思っていました。だからもう大丈夫だと。
 
甘いですね。
すっかり忘れていました。
悲しみは、乗り越えるとか、忘れるとか笑い話にできるものではないんです。
 
父は自死で早くになくなったという短い説明の中にも、20年の時間と感情は詰まっていて、亡くなったときの光景、父の死で変わった家族、場所、いろんな記憶が残っていますから。
 
 
どれだけ時間がたっても悲しいものは悲しい。
グリーフとはそういうものです。
 
 
同じように、身内の死に関して語ってくれた友人の言葉にも、たくさんの感情や、言葉では表せない体験が詰まっているわけです。
言わないものほど、言えないものほど、つらいだろうことが想像できるから、自分のグリーフを口に出すのも、他人のグリーフに触れるのも存分に堪えるものがあります。
 
だからこそ、わたしにその話をしてくれる相手には、すこしでも肩の荷がおりたと思ってもらいたい。言い表せた感情にも言い表せない感情にも、そうあっていいんだよと居場所を作ってあげたい。
できるかどうかはさておき、そんなふうに思います。
 
悲しいときに悲しいことを否定せず矯正せず、悲しいは悲しいのまま話すことができる人が、ただそばにいて聞くことができる人が増えたら、世界はもっとシンプルに安心で幸福だろうと思うのでした。
 
いつまでだって、悲しいと思い出したら泣けばよいのです。
悲しいものは悲しいと泣ければ、感情をそのまま認められたら、
おいしいものを食べて、友達と笑ってまた生きていけるから。
 
グリーフケア・サポートについて気になる方はこちらをどうぞ。
利益相反はありません。