今日はグリーフの話をしようと思います。
身近な人が亡くなった後、悲しいですよね。それをグリーフ、悲嘆と呼びます。
その悲しさは、放置したり我慢してなくなるものではなく、サポートやケアが必要なものです。
グリーフという概念は日本ではまだあまり知られていません。
人口に膾炙するまでにはあと20年くらい必要かもしれませんが、間違いなくスタンダードになっていく類のものです。
誰もが死別を経験するにもかかわらず、こころない言動を頻繁に見聞きするので、声を大にして言います。
悲嘆のケアは、人間の基本的なニーズで、健康の要です。
父が亡くなって20年がたちまして、もうグリーフは卒業と思っていたのですが、 まったくそんなことはありませんでした。
酒の席で身の上話が進んで、 友人とお互いの家族環境の話をしたんですね。
すると、私自身の家族のことを話しているとき、声がみるみる硬くなることがわかるんです。
相手がどう反応するかわからないから、無神経な言葉を投げられないように、傷つかないように、涙がこぼれないように細心の注意をはらう癖がついていることに。
もうさんざぱら悲しんだし、父の死が無駄でないと思えるように仕事をしてきたし、できることはやりきったから、 父の死は他人に同情されるような不幸ではなく、わたしの糧になったと思っていました。だからもう大丈夫だと。
すっかり忘れていました。
悲しみは、乗り越えるとか、忘れるとか笑い話にできるものではないんです。
どれだけ時間がたっても悲しいものは悲しい。
グリーフとはそういうものです。
同じように、身内の死に関して語ってくれた友人の言葉にも、たくさんの感情や、言葉では表せない体験が詰まっているわけです。
言わないものほど、言えないものほど、つらいだろうことが想像できるから、自分のグリーフを口に出すのも、 他人のグリーフに触れるのも存分に堪えるものがあります。
だからこそ、わたしにその話をしてくれる相手には、 すこしでも肩の荷がおりたと思ってもらいたい。 言い表せた感情にも言い表せない感情にも、そう あっていいんだよと居場所を作ってあげたい。
できるかどうかはさておき、 そんなふうに思います。
悲しいときに悲しいことを否定せず矯正せず、 悲しいは悲しいのまま話すことができる人が、 ただそばにいて聞くことができる人が増えたら、世界はもっとシンプルに安心で幸福だろうと思うのでした。
いつまでだって、 悲しいと思い出したら泣けばよいのです。
悲しいものは悲しいと泣ければ、感情をそのまま認められたら、
おいしいものを食べて、友達と笑ってまた生きていけるから。
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利益相反はありません。